『過去への追想』
映画館が閉館されてしまったので、映画を観に行けない。閉鎖される前に見た「三島由紀夫VS東大全共闘」の映画は伝説の討論会、圧倒的な熱量を体感する50年目の真実を紐解くドキュメンタリー映画だ。映画の中で難しい言語が飛び交う討論は緊迫感があり、とても面白くて、あの昂揚した時代、昭和の時代が過ぎ去ってしまったことを強く意識させられた。
昭和45年(1970年)三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で「楯の会」のメンバーと自決した時、家中の人が、世間中の人々が、三島由紀夫の割腹自殺を報道するテレビに釘付けになっていた。私は高校生で、思春期の18歳だった。三島由紀夫と森田必勝の割腹自殺の衝撃は強烈で、記憶の底深くに渦巻いている。
当時、最盛期だった学生運動は沈静化して終息したが、数年後の私に以外な形で影響を及ぼすとは思いもよらなかった。私は年代的には安保闘争時代より遅い世代だから「遅れて来た青年」と言ってもいいだろう。だから「全共闘運動の原点であり、ピーク」と言われた東大安田講堂占拠事件や成田新空港建設反対の三里塚闘争、中核派VS革マル派などの抗争は、テレビの中だけの出来事で、私とは無縁のものと思っていた。
20代前半、私は都内の広告代理店に就職して働いていた。夜8時過ぎ、私が住んでいた高円寺の安アパートの部屋のドアをノックする音がした。
こんな遅い時間に一体誰だろう?と不信に思いながらドアを少し開ける。
「夜分すみませんが、少しお話できませんか?」と見知らぬ若い男が顔を覗かせて言う。
こんな夜更けに突然、訪ねて来た男はTシャツにジーンズの薄汚れた格好で、ひ弱な感じがする。私は少し警戒するが、若さゆえの好奇心が働いて暫くの間、ドア越しに話をした。
彼はどうも新左翼系の活動家らしい。周囲を気にしながら静かに私に話をしてから、ガリ版刷りの白黒のビラ2枚を私に手渡して、まるで逃げるようにして帰って行った。
それから1週間後、金曜日の夜に再びあの男が現れた。私は渡されたビラを読んでも、難しそうな内容を良く理解できず、違和感を覚えて部屋の隅のゴミ箱に捨てて置いたのだ。
もし彼が中核派の活動家だったら、内ゲバに巻き込まれて死ぬかも知れない?しかし、学生運動の活動家にしては、気弱で大人しそうな彼に対してあまり恐怖感は感じられない。
その後、何度か彼が訪れたが、いつも断り切れずにいつしか彼を部屋に招き入れ、真面目に政治や闘争の話をするようになった。いつの間にか私は、デモや集会などを遠回りに眺めるようになって行った。
若かった私は、社会的な情勢や自分の知らないことに対して好奇心が人一倍旺盛だった。彼に影響され、彼に洗脳された訳ではない。好奇心がそうさせたのである。彼が熱弁をふるう主義主張にいつも違和感を覚えながらも気が付くと、私はシンパとしてデモや集会などに参加するようになっていた。怖いもの見たさで厚いベニヤ板で頑丈に補強された中核派のアジトにも一度だけ足を踏み入れて、内部を見たことがある。
ヘルメットをかぶった集団と共に三里塚へも行き、成田新空港建設反対のデモ行進にも何度か参加した。機動隊との小競り合いに巻き込まれて、成り行き上、私より若い無表情な機動隊員と激しい殴り合いになったこともある。私の隊列には顔は良く見えないが、女性が多数いたのを覚えている。
高田渡の『自衛隊に入ろう』と連呼する陽気な歌。
「みなさん方の中に自衛隊に入りたい人はいませんか?」
「自衛隊に入れば この世は天国」と、皮肉った歌詞が可笑しい。
『戦争を知らない子供たち』をジローズの杉田次郎が歌って、若者の心を捉えたフォークソングが当時、全盛期だった。
デモの後は内ゲバを警戒して、電車に乗る時も常に周りに目を配りながら、電車の乗り降りを繰り返した。電車のドアが閉じる瞬間に降りたり、乗ったりして危険から逃げていた。アパートへは周囲と後ろを気にしながら回り道を全速力で走って帰った。
中核派でも革マル派でも学生でもない私、普通の社会人であり会社員の私が、何を恐れているのか?というと、内ゲバの誤認で、一般人が中革派の活動家と間違われて襲撃され、革マル派の過激派に殺されたことがあったからだ。難しいマルクス主義を一つも理解できない私が何故、学生運動、政治闘争に参加したのか? 目に見えない時代の空気感を感じ、若さゆえの好奇心に突き動かされていた時代だとしか思えない。
「私は今日まで生きてみました。私は今日まで生きてみました」
『今日まで、そして明日から』フォーク界の先駆者、吉田拓郎の熱い唄。
そうだ「私は今日まで生きて来た」のだ。
そして「明日からもこうして生きていくだろうと……」
あの時、私のアパートを訪ねて来た心優しい彼は、今頃どうしているだろうか?平穏無事に社会生活を送
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