一生、一石
一生、一石
石動 瞬(いするぎ しゅん)
「あったぁ!」と千石源治は思わず誰もいない魚野川の川原、中州で大きな叫び声をあげた。
「この石なら親父に自慢が出来るぞ!」と思うと、腰までのウエーダーに入った雪解け水で濡れたズボンも、厚手の長袖シャツの袖口の冷たさも一向に気にならなかった。
「やったぞ!ついに念願の名石を上げたぞ!」と込み上げて来る喜びに、源治は心ときめいた。魚野川の小出地区にある中州上流の石溜まりに狙いを付けた読みが、見事に的中したのだ。
清らかな雪解け水が揺らめく膝下の、水中の中から両手で救い上げた真っ黒な八海山石は、長さが約40cm以上もあり、高さも奥行もある山形石で、所々に深いジャグレがあり、それが見どころになっている。川ずれしたつるつるの部分が清水に濡れ、太陽光を浴びて黒光りしている。
山の連峰が3つあり、どっしりと構えた越後三山の八海山、中ノ岳、駒ケ岳の造形に瓜二つの景を持つ名石で、正に「一生、一石」とも言える素晴らしい水石だった。
「これなら探石名人と言われた父親の源蔵も舌を巻くだろう」と考えると、増々気分が高揚して有頂天になった。
「この八海山石の事は親父以外には、まだ誰にも教えないことにしよう!」と心に決めた。
ずっしりとした重い石を左腕で抱きかかえながら転倒しないように、右手に持った長いバールを杖代わりにして、ゆっくりとした足取りで水をかき分けて中州に戻り、乾いた河原の庭石としても十分な大きさの石に座り込んだ。
ゴツゴツした尻下の石は早春の陽光を浴びて温かく、源治の濡れたズボンを温めて心を癒してくれた。
源治は興奮と感激が覚め止まぬままゲットした水石をしばらくの間、眺めながらそこに佇んでいた…。
「そうだ!大工の文吉爺さんに頼んで、山桜の木材で作台を頼もう。文吉爺さんならこの名石に合わせて素晴らしい水石の台を作ってくれるに違いない」
「そして、池田美術館で7月に行われる『八海山夢展』に出品して、皆を驚かせてやろう」と源治は考えた。
『八海山夢展』は地元魚沼の美術愛好家を中心に、絵画・書道・写真・水石・工芸の5部門約100点が展示される。水石展示会が殆ど無くなってしまったので、八海山石の魅力や見方を紹介出来る貴重な機会の展示会なのだ。
八海山石を傷付けないようにタオルで巻き、リュックサックにそっと入れて背負うと急いで土手の上に止めた軽トラに戻り、荷台にリュックサックやウエーダー、バールを載せてから車のエンジンをかけた。
探石に行く時、狭い河原の藪だらけの道を走るのに重宝する軽トラは、源治の気分を反映してか?軽快なエンジン音を響かせた。国道17号線から県道291号線を通り、約30分かけて五日町の山沿いの杉林に囲まれた自宅に帰った。
雪国の南魚沼市は2m以上の豪雪が降り、根雪期間が100日を超える。長い冬が終わると待ちわびた探石の季節が訪れる。春が来て越後の山々から流れて来る冷たい雪解け水が魚野川に注ぎ、田畑へと引き込まれて美味しい魚沼産のコシヒカリを作り出す。他にも地元の八色地区で産出する大きな八色スイカも甘くて美味しいので人気がある。
長く待ちわびた春が来て、雪が少しずつ解け始めた。八海山の冷たい雪解け水は長年にわたり積もった広葉樹の落ち葉の絨毯を染みて浄化され、沢をちょろちょろとゆっくり流れ落ちて、源流から魚野川へと下って行く。
八海山から六日町方面に流れる川は三国川など3つあるが、八海山石の良石が採れる川は浦佐の水無川だけである。水無川上流の河原の石は大きくて荒い。魚野川との合流点から信濃川への合流点の越後川口周辺までは、川ずれした八海山石の良石が採石出来る好ポイントが多い。
長野県の千曲川から流れて来る日本で一番長い信濃川の河原は広いが、石が細かくて真黒の石が少ないので、水石としての名石をゲットするのは殆ど望めない。
八海山の麓から流れる水無川はその名の通り、普段は殆ど水流がなくて川底が丸見えになっている。しかし、台風時の大雨や線状降水帯などの集中豪雨の時は水嵩が増し、濁流が激しくなって洪水のように一気に魚野川へと押し寄せるのだ。
満水の激流の勢いは大きな石をも軽く動かして下流へと運ぶ。その水流の力による石と石とのぶつかり合いで、大きな石が破壊し、砕けたり、そげたり、川ずれして少しずつ丸くなり角が取れて行くのだ。
大水が引いた後の水無川の川原には普段は川底にあった石が激流によってひっくり返され露出して地表に姿を現わす。だから地元の愛石家がそれを狙って早朝から名石を探して水無川を歩き廻っている。
昭和38年頃の空前の水石ブーム時代から、この地方には水石愛石家が沢山いた。水石愛好家の会も全国や新潟県の各地にも沢山あった。しかし、やがて水石ブームも終焉を迎え、当時の愛石家も高齢になり多くの愛石家が亡くなってしまった。
毎年、春と秋に地元の公民館などで水石展示会を開催すると八海山石販売の人気もあってか?全国各地から探石がてら多くの愛石家がやって来たが、現在は水石展開催も無くなり、探石する人も随分と少なくなった。
源治は探石の競争相手が少ないのは有難いが、やはり水石愛好家の仲間が減るのはちょっと寂しい気もしている。
源治も以前は、地元の水石会に所属していたが、会長が亡くなって、会が解散してからは、殆ど単独行動で探石に出かけている。水石仲間と探石すると相手に気を使い過ぎて、自分のペースで探石出来ないからだ。
源治の父、千石源蔵も愛石家で自宅には自採した八海山石が山ほどある。大きな八海山石は庭石としても人気があり、この地方の名家の庭石の殆どが八海山石で構成されている。
源治の屋敷の庭も八海山石で構成されており、雨が降ると時代の付いた苔むした八海山石が水に濡れて何とも言えない詫びさびの世界を醸し出している。
家の中や物置小屋にも源蔵と源治が探石した八海山石が所狭しと山積みになっている。この沢山の石たちはそれぞれ見どころのある八海山石なのだが、水石の展示会に出品するには二の足を踏む石も多い。
展示会に出しても恥ずかしくない名石には黒檀や紫檀、カリン、エンジュなどの固い材木で、ちゃんとした本台を付けて桐箱に入れて保管している。水盤石として砂の上に置いて鑑賞する方が適している石には台を付けないで、銅盤や水盤に砂を入れて、その上に石を乗せて時代を付ける場合もある。
新潟県南魚沼市は魚沼産のコシヒカリや銘酒、八海山などで全国的に知れ渡っているが、塩沢村で生まれた鈴木牧之(すずき ぼくし)の事はあまり知られていない。江戸時代の文人、鈴木牧之は越後の雪深い生活を伝えるために40年の歳月を費やし、山東京山の協力を得て『北越雪譜』を世に送り出した偉人である。
『北越雪譜』は民俗学的にも非常に高い評価で、海外に翻訳されて出版され、大好評を得ている。
鈴木牧之記念館のある旧三国街道沿いの塩沢宿の一部が牧之の名をとり【牧之通り】と名付けられている。その通りは雪国の雁木造りが再現されていて、多くの観光客が訪れている。
父、源蔵は山間部の貧しい農家の家庭に育ったので、中学を卒業するとすぐに地元塩沢の造園業に弟子入りした。そこで苦労し経験を積んでから独立して、千石造園を立ち上げた。以前は職人が二人いたが、一人が高齢で体力的に無理だと言う理由で辞めてしまった。
長男の源治が農業高校を卒業後、家業を継いでくれたので、今は職人の石田吾平爺さんと3人で細々と造園業を切り盛りしている。
源治は高校卒業後、雪深い故郷を離れて東京に出て働いてみたいと思った事もあったが、長男だし何よりも雪国の生活は厳しいが、自然豊かな魚沼の大地が好きなので思い踏みとどまった。
昔の家と違い今の新築一戸建ては豪雪対策としてコンクリートの高床式の家で、屋根も雪下ろしの重労働を軽減するために屋根の傾斜を急にして雪が自然に滑り落ちるようにしたり、屋根から地下水を流して、雪を溶かし落下させている家もある。
近代的な家は冷暖房を完備して、昔のようにすきま風に悩ませられる事もなく快適に過ごせるが、日本風の屋敷でなく西洋式の建売住宅が多いので、池のある日本庭園に作庭する家が少なくなった。また駐車場もコンクリートで作られて便利で快適になった。それらの要因から造園業の仕事も庭木の伐採、剪定が主で、作庭する家はかなり減少してしまった。
平成16年の新潟県中越地震で死者68人と言う多大な被害を出した地震の影響で、小千谷や山古志村の錦鯉業者が辞めてしまった。更に平成23年3・11の東日本大震災の影響で、多くの錦鯉業者が多大な被害を受けて廃業した。
以前、自宅の池で小千谷の錦鯉を飼う人が多かったが、今は錦鯉を飼う人が極端に少なくなってしまった。
現在、小千谷の錦鯉は1匹1億円以上の値がつくこともあることから、「泳ぐ宝石」として日本よりも海外で人気があり注目を浴びている。それは水石と盆栽が浮世絵と同じように外国で評価されて人気がある事と共通していて、日本の伝統文化、美意識が見直され注目されているからだ。
冬期、道路の除雪作業はブルトーザーだけでなく消雪パイプによって、冬温かい地下水を利用して道路の雪消しを行っている。地球温暖化の影響で昔から比べたら積雪量が少なくなったとは言え、雪国の生活は豪雪に半年近く閉ざされるので決して楽ではない。
日本の人口減少の影響はここ魚沼も同様で、僻地の山間部では人が住まなくなった空き家が増えて、雪の重みで古民家が崩落し廃村となる村も多い。
豪雪地帯の魚沼地区は昔、生活が貧しい農家が多くて兼業農家は当たり前で、冬季に東京へ出稼ぎに行く村人も多かった。
現在は企業誘致、市町村合併などで南魚沼市が地域振興に力を入れている。地元の企業で働ける割合が増えたので、出稼ぎ者が少なくなった。
これは道路建設(消雪パイプの設置)や橋などの整備、公共事業で新潟の地元に大きく貢献して愛された長岡出身の内閣総理大臣、田中角栄さんの「日本列島改造論」による所の功績が多い。角栄橋と命名された橋があるのもそれを物語っている。
当時の『越山会』は飛ぶ鳥を落とす勢いで、『越山会』に所属している新潟県民が非常に多かった。
源蔵より5つ年下の母、妙子は性格が明るく、畑仕事が大好きで身体が丈夫だから家庭菜園で野菜作りにせっせと励んでいる。妹の節子は長岡に嫁いで共働き、老人ホームで介護職ヘルパーの仕事をしながら暮らしている。男と女の子供が二人いて時々、実家に帰って来るから、両親は孫の顔を見るのを楽しみにしている。
30歳の源治は独身なので、早く嫁を貰い孫の顔を両親に見せたいと思うが、田舎では中々良縁がないのだ。人口減少で若い世代が少なくて、新潟の田舎では嫁さん探しが大変で、フィリッピン人など東南アジア人を嫁さんにする人もいるが、源治はそこまでして結婚したいとは思っていない。
源蔵はまだ60歳で、働き盛りだが松の木の剪定中に脚立から転落して、腰の骨を骨折してからは無理が効かなくなってしまった。後遺症があるから探石に河原に出かけることも少なくなってしまった。
源治は八海山石が大好きで一番だと思っているが、北海道産の神居古潭石と同様に硬質で真っ黒な只見川石を求めて、小出から田子倉ダムを抜けて福島県の南会津へ、越後長岡藩牧野家家臣の河井継之助が戊辰戦争の北越戦争で通った険しい山道の60里越えをして福島県の只見川へ探石に出かけた事がある。
河井継之助は司馬遼太郎の「峠」と言う小説に書かれているが、源治は「峠」を読んで、継之助の郷土の藩を思う使命感、激動の時代の流れに翻弄される挫折感の中で懸命に生きた継之助の姿に感動して涙が止まらなかった。
只見町の山道の道路を軽トラで走っていると、目の前を小熊が横切って山の傾斜面を駆け上って行った。可愛い小熊の姿に驚いて急ブレーキをかけて車を止めたが、暫くしても母親熊は現れなかった。
最近、日本各地で人間の生活圏まで出没している熊問題が報道されている。福島県の南会津地方も熊の絶対数が増えて、人里への出没が多いらしい。熊が出没する地区は毎日、脅しの花火を上げて警告、警戒しているが、最近の熊は人間を見ても怖がらなくなっていると地元の人は言う。
熊との共存が出来るに越したことはないが、ドングリの実などの餌不足で、人間の生活圏に侵入して人を襲うようになると共存が難しくて駆除せざるを得ない。春先のワラビなどの山菜採りには特に注意しなければならない。
鈴木牧之記念館には「人を助けた熊」と言う絵本が展示されている。
熊対策として鈴や笛、爆竹、熊スプレーなどがあるが、源治は鉄の重いバールでなく長い軽量バールと鈴の音に頼っている。
石を掘り起こしたり、足許が不安定な河原で石の上を歩く時にはバールは必需品で、川の浅瀬を渡る時にも滑るから非常に役立っている。
只見川は伊南川と合流して新潟県の阿賀野川へ。更に日本海へと流れていく。只見川はダムが多くて探石出来る場所が少ない。風光明媚な景勝地が多くて、只見鉄道の四季折々の風景は写真家に絶大な人気がある。
初めての川の探石では中々、良石を探せない。ましてこの時期には熊との遭遇だけでなく、草が伸び放題で雑草に足を絡ませて転倒する危険性もある。
まず土手や橋の上から川の石が溜まる河原を探して、河原への下り口を探す。雑草が背丈まで伸び放題だから、その時に雑草を踏みつけたり、バールで木の枝を折る。その木に目立つ色の紐を縛り付けて、下って来た道筋に目印を付けて置くと良い。
単独行動にはマムシやスズメバチ、山ヒルなどの危険が付きまとうから、装備品などに細心の注意をしなければならない。
源治はもしもの事があった時に発見されやすいようにと赤いシャツや赤いリュックサックなど、目立つ服装と装備を準備している。黒色の服は熊と間違えられたり、スズメバチの標的になりやすいので、避けた方が良い。
広い川原の石溜まりを前後、左右に隈なく歩き回って、河原に転がる石の質を見抜き、頭出しの石の色と質を吟味して探す。一日中、河原を歩き回っても良石を一つも見つけられない事がある。源治の経験をしても探石は非常に難しい。
効率的な探石方法はまず周囲を見渡してから、足許を注意深く探る。川岸から見える範囲の水中や草むら、流木やテトラの下なども隈なく探す。
砂や土に埋もれた石は欠けたり割れたりしないから、壊れそうな繊細な部分や抜け(穴)が残っているので名石が多いのである。
良石を見つけたらすぐリュックサックに入れないで、大きな石や流木の側に一時的に置いて、赤い布やテープなどで目印を付けて、回収時にすぐ分かるようにして置く。重い石を担いで歩き回るのではなくて、出来るだけ体力の消耗を防ぐ工夫が必要なのだ。
無尽蔵、星の数ほどある河原の石から名石を探すのは至難の業なのである。難しいからこそ見つけた時の喜びは大きくて、天にも昇る気持ちになる。とにかく探石の経験を積んで、川の状況が読めるようにならないと名石は滅多に拾えないのだ。
「すっごい石だな!よくも越後三山に似た石が見つかったもんだな!」
「こんな石は二つとないがや!」と越後訛りの源蔵は驚くと同時に感心して八海山石のジャグレの穴や景を吟味し見とれた。
「越後訛りの方言はもう親父の代で終わりだな」と源治は思うと、少し寂しい気持ちになった。
「この石の台を文吉爺さんに作ってくれと親父から頼んでくれよ」
「出来れば黒檀か紫檀、あるいは山桜の台座がいいと思うんだけど…」
「分かった、文吉に頼んでみるがや」
武田文吉は縁側に座ってタバコを吸っていた。齢80過ぎだから大工の仕事はもうしていない。趣味で野鳥の鳥籠を作っているが、野鳥の飼育が禁止されてからは鳥籠の受注もない。
昔気質の職人で頑固一徹だが、子供たちには優しい。しかし、子供が間違った事をすると他人の子供でも平気でしかりつける。昔はそんな年寄りがいたが、最近の年寄りは気概がないと源蔵は感じている。
文吉に八海山石を見せると越後三山の景にそっくりだと驚いた。そして作台を快く引き受けてくれた。

ある朝、源治は読売新聞の『盆栽・水石振興超党派議連発足』と言う小さな記事に目を止めた。
「盆栽や水石の振興を図る超党派の議員連盟が発足した。林芳正総務相が会長で、盆栽の海外展開や職人の後継者不足への対応策を協議する。盆栽や水石を輸出産業として確立する施策を検討し、政府に提言する方針だ」と書いてある。
盆栽と共に日本の伝統文化である「水石」とは何か?ほとんどの人は知らない。盆栽は知っていても、水石を知らない人が余りにも多い。
「水石(すいせき)をみずいしと読んだり、漬物石や墓石以外に水石なんて聞いた事がない」と言う人もいる。
水石は「盆石」と呼ばれた時代から500年以上の歴史があり、自然石を対象に、詩的想像力を働かせて、様々な芸術的感興を味わおうとする詫びさびの世界である。
「ある愛石家がもし『盆栽・水石文化を世界遺産に』認定されたら、探石が出来なくなって困る」と言っていたが、そんなことはないと源治は思う。
「川の石を拾うなと言う事は、道端に落ちている1万円札を拾うなと言っても、到底無理な話と同じ事だ」と思う。庭石のように大きな石なら兎も角、水石に適する位の大きさの石ならどこでも簡単に拾う事が出来るからだ。
今の子供は川遊びよりスマホでゲーム遊びに熱中しているし、親も危ないからと川遊びをさせない。そんな状況では水石と言う文化がやがて消滅しても不思議ではない。「探石は面白いし、楽しい」と源治は思っている。
「一生一石」の名石を拾ったからと言って、そこで終わる訳には行かない。名石の所有欲には上限はない。まして探石のお宝探しの楽しみに変わる趣味が源治にはない。
パチンコもゲームも好きではないし、競馬などの賭け事には全く興味がない。石を探して一日中、河原を歩いている方が性に合っている。
その日の早朝、源治は水無川と魚野川の合流点に居た。このポイントは探石に来る人が多くて中々、良い石は探せない場所だが、源治は一度だけ名石を拾った事がある。
探石者が何度も通った河原で底面が平らな石をバールでひっくり返したら、見事な景で抜け(穴)のある八海山石だった。普段は乾燥していてグレーがかった色をしているが、打ち水をして濡らすと八海山石独特の肌の渋さがあり、深いジャグレのある素晴らしい真黒の八海山石だった。
下流に向かって右岸の深みの際が水流によって削られて、良石が土の中から顔を出すことがある。また合流点の土と砂地が混ざった場所にも良石が埋もれていることがあるので、注意して探す必要がある。
だいぶ暖かくなり、水温が高くなったとは言え、清流の水はまだ冷たくて気持ちが良い。川岸を探るために腰まであるウエーダーを履き、慎重に足場を確かめながら、長いバールにロープを縛り付けて左手首に巻き、右手で土手の草につかまりながらゆっくりと下って行った。
20mほど進んで大きな石に右足を載せて体重をかけた時、石が崩れてバランスを崩して転倒した。掴んだ雑草も根本から抜けたので水中に転落した。更に運悪くウエーダーから水が浸入して深みに嵌まり、激流に揉まれて溺れてしまったのだ。
1985年、マラソンの瀬古俊彦選手の中村清監督が趣味の鮎釣りに魚野川へ出かけた。鮎釣りの最中に増水した流れに飲み込まれてしまい、71歳でこの世を去った。
ウエーダーに水が入ると中村監督の時と同様に身動きが取れずにパニック状態に陥りやすいのだ。
源治は子供の時から、魚野川での川遊びで水には慣れていたが、運悪くウエーダーのゴム紐が川底のコンクリートブロックの鉄金に引っ掛かってしまい、必死に外そうとしている間に呼吸困難になり、水をしこたま飲んでしまったのだ。苦労して外した時にはすでに遅く、力尽きて意識を失っていた…。
水無川と魚野川の合流点から小出地区まで約8qあり、昔は暴れ川だった魚野川も河川改修工事で川幅が広くなり流れの変化が小さく、蛇行を繰り返しながら悠々と流れている。
源治はゆっくりと魚野川の本流を下流へと流されて行った。顔を下向きにしてまるでシュノ―ケルを付けて川底の石を覗いているみたいに流されて行ったので、誰も溺れているとは疑わなかった。
小出の堀之内橋上流、魚野川の中州は水の流れが本流と支流に別れる。その地点はかなり大きな石が所々溜まっている。そこに源治の冷たくなった体が辿り着き、大きな石と石の間に横たわっていた…。
そこがまさしく源治が「越後三山」の八海山石を見つけて拾い上げたで場所であった。
夕方、暗くなっても戻らない源治を心配した源蔵が、浦佐の魚野川の土手の上に駐車してあった軽トラを見つけたが、そこには源治の姿はなく、周辺には誰一人いなかった。
一匹狼のような単独行動は束縛されない自由があるが、危険性のリスクも伴う。自然は時として猛獣のように鋭い牙を剥く事がある。南魚沼の豊かで厳しい自然の中、魚野川清流の浅瀬に寝そべっているみたいな源治の亡骸は、大きな流木のように清流の流れを身体で受け止めて魚野川に静かに佇んでいた…。
翌朝の早朝、地元の消防団員によって冷たくなっていた源治が発見された。
7月になり、越後の魚沼地方も漸く梅雨が明け、連日強い日差しが照り付け、真夏の猛暑が続いて、アブラゼミの鳴き声がうるさい程、山間部に響き渡っていた。
『八海山夢展』が行われている池田美術館2階の水石展示室には源治の八海山石が「越後三山」の銘を付けて展示されていた。それが源治の遺愛石となった。
会場に訪れた見学客にも大工の文吉爺さんが山桜の木目を活かして作った台座に鎮座する源治の八海山石がとても素晴らしいと注目を浴びた。その見学客の傍らには源治の母、妙子と妹の節子、節子の二人の子供たち家族の姿があった。
勿論、石仲間や水石関係者も展示会を訪れて、見事な「越後三山」の八海山石を称賛した事は言うまでもない。
池田美術館の2階のエレベーター前からは尾根の深部に残雪を残して、陽光と輝く八海山の神々しい姿が見える。大きな窓枠が名画の額縁のように見える。その中に悠然と納まる八海山を静かに眺める源蔵の目から、八海山の源流から流れる清水のような涙が零れた…。
石動 瞬(いするぎ しゅん)
「あったぁ!」と千石源治は思わず誰もいない魚野川の川原、中州で大きな叫び声をあげた。
「この石なら親父に自慢が出来るぞ!」と思うと、腰までのウエーダーに入った雪解け水で濡れたズボンも、厚手の長袖シャツの袖口の冷たさも一向に気にならなかった。
「やったぞ!ついに念願の名石を上げたぞ!」と込み上げて来る喜びに、源治は心ときめいた。魚野川の小出地区にある中州上流の石溜まりに狙いを付けた読みが、見事に的中したのだ。
清らかな雪解け水が揺らめく膝下の、水中の中から両手で救い上げた真っ黒な八海山石は、長さが約40cm以上もあり、高さも奥行もある山形石で、所々に深いジャグレがあり、それが見どころになっている。川ずれしたつるつるの部分が清水に濡れ、太陽光を浴びて黒光りしている。
山の連峰が3つあり、どっしりと構えた越後三山の八海山、中ノ岳、駒ケ岳の造形に瓜二つの景を持つ名石で、正に「一生、一石」とも言える素晴らしい水石だった。
「これなら探石名人と言われた父親の源蔵も舌を巻くだろう」と考えると、増々気分が高揚して有頂天になった。
「この八海山石の事は親父以外には、まだ誰にも教えないことにしよう!」と心に決めた。
ずっしりとした重い石を左腕で抱きかかえながら転倒しないように、右手に持った長いバールを杖代わりにして、ゆっくりとした足取りで水をかき分けて中州に戻り、乾いた河原の庭石としても十分な大きさの石に座り込んだ。
ゴツゴツした尻下の石は早春の陽光を浴びて温かく、源治の濡れたズボンを温めて心を癒してくれた。
源治は興奮と感激が覚め止まぬままゲットした水石をしばらくの間、眺めながらそこに佇んでいた…。
「そうだ!大工の文吉爺さんに頼んで、山桜の木材で作台を頼もう。文吉爺さんならこの名石に合わせて素晴らしい水石の台を作ってくれるに違いない」
「そして、池田美術館で7月に行われる『八海山夢展』に出品して、皆を驚かせてやろう」と源治は考えた。
『八海山夢展』は地元魚沼の美術愛好家を中心に、絵画・書道・写真・水石・工芸の5部門約100点が展示される。水石展示会が殆ど無くなってしまったので、八海山石の魅力や見方を紹介出来る貴重な機会の展示会なのだ。
八海山石を傷付けないようにタオルで巻き、リュックサックにそっと入れて背負うと急いで土手の上に止めた軽トラに戻り、荷台にリュックサックやウエーダー、バールを載せてから車のエンジンをかけた。
探石に行く時、狭い河原の藪だらけの道を走るのに重宝する軽トラは、源治の気分を反映してか?軽快なエンジン音を響かせた。国道17号線から県道291号線を通り、約30分かけて五日町の山沿いの杉林に囲まれた自宅に帰った。
雪国の南魚沼市は2m以上の豪雪が降り、根雪期間が100日を超える。長い冬が終わると待ちわびた探石の季節が訪れる。春が来て越後の山々から流れて来る冷たい雪解け水が魚野川に注ぎ、田畑へと引き込まれて美味しい魚沼産のコシヒカリを作り出す。他にも地元の八色地区で産出する大きな八色スイカも甘くて美味しいので人気がある。
長く待ちわびた春が来て、雪が少しずつ解け始めた。八海山の冷たい雪解け水は長年にわたり積もった広葉樹の落ち葉の絨毯を染みて浄化され、沢をちょろちょろとゆっくり流れ落ちて、源流から魚野川へと下って行く。
八海山から六日町方面に流れる川は三国川など3つあるが、八海山石の良石が採れる川は浦佐の水無川だけである。水無川上流の河原の石は大きくて荒い。魚野川との合流点から信濃川への合流点の越後川口周辺までは、川ずれした八海山石の良石が採石出来る好ポイントが多い。
長野県の千曲川から流れて来る日本で一番長い信濃川の河原は広いが、石が細かくて真黒の石が少ないので、水石としての名石をゲットするのは殆ど望めない。
八海山の麓から流れる水無川はその名の通り、普段は殆ど水流がなくて川底が丸見えになっている。しかし、台風時の大雨や線状降水帯などの集中豪雨の時は水嵩が増し、濁流が激しくなって洪水のように一気に魚野川へと押し寄せるのだ。
満水の激流の勢いは大きな石をも軽く動かして下流へと運ぶ。その水流の力による石と石とのぶつかり合いで、大きな石が破壊し、砕けたり、そげたり、川ずれして少しずつ丸くなり角が取れて行くのだ。
大水が引いた後の水無川の川原には普段は川底にあった石が激流によってひっくり返され露出して地表に姿を現わす。だから地元の愛石家がそれを狙って早朝から名石を探して水無川を歩き廻っている。
昭和38年頃の空前の水石ブーム時代から、この地方には水石愛石家が沢山いた。水石愛好家の会も全国や新潟県の各地にも沢山あった。しかし、やがて水石ブームも終焉を迎え、当時の愛石家も高齢になり多くの愛石家が亡くなってしまった。
毎年、春と秋に地元の公民館などで水石展示会を開催すると八海山石販売の人気もあってか?全国各地から探石がてら多くの愛石家がやって来たが、現在は水石展開催も無くなり、探石する人も随分と少なくなった。
源治は探石の競争相手が少ないのは有難いが、やはり水石愛好家の仲間が減るのはちょっと寂しい気もしている。
源治も以前は、地元の水石会に所属していたが、会長が亡くなって、会が解散してからは、殆ど単独行動で探石に出かけている。水石仲間と探石すると相手に気を使い過ぎて、自分のペースで探石出来ないからだ。
源治の父、千石源蔵も愛石家で自宅には自採した八海山石が山ほどある。大きな八海山石は庭石としても人気があり、この地方の名家の庭石の殆どが八海山石で構成されている。
源治の屋敷の庭も八海山石で構成されており、雨が降ると時代の付いた苔むした八海山石が水に濡れて何とも言えない詫びさびの世界を醸し出している。
家の中や物置小屋にも源蔵と源治が探石した八海山石が所狭しと山積みになっている。この沢山の石たちはそれぞれ見どころのある八海山石なのだが、水石の展示会に出品するには二の足を踏む石も多い。
展示会に出しても恥ずかしくない名石には黒檀や紫檀、カリン、エンジュなどの固い材木で、ちゃんとした本台を付けて桐箱に入れて保管している。水盤石として砂の上に置いて鑑賞する方が適している石には台を付けないで、銅盤や水盤に砂を入れて、その上に石を乗せて時代を付ける場合もある。
新潟県南魚沼市は魚沼産のコシヒカリや銘酒、八海山などで全国的に知れ渡っているが、塩沢村で生まれた鈴木牧之(すずき ぼくし)の事はあまり知られていない。江戸時代の文人、鈴木牧之は越後の雪深い生活を伝えるために40年の歳月を費やし、山東京山の協力を得て『北越雪譜』を世に送り出した偉人である。
『北越雪譜』は民俗学的にも非常に高い評価で、海外に翻訳されて出版され、大好評を得ている。
鈴木牧之記念館のある旧三国街道沿いの塩沢宿の一部が牧之の名をとり【牧之通り】と名付けられている。その通りは雪国の雁木造りが再現されていて、多くの観光客が訪れている。
父、源蔵は山間部の貧しい農家の家庭に育ったので、中学を卒業するとすぐに地元塩沢の造園業に弟子入りした。そこで苦労し経験を積んでから独立して、千石造園を立ち上げた。以前は職人が二人いたが、一人が高齢で体力的に無理だと言う理由で辞めてしまった。
長男の源治が農業高校を卒業後、家業を継いでくれたので、今は職人の石田吾平爺さんと3人で細々と造園業を切り盛りしている。
源治は高校卒業後、雪深い故郷を離れて東京に出て働いてみたいと思った事もあったが、長男だし何よりも雪国の生活は厳しいが、自然豊かな魚沼の大地が好きなので思い踏みとどまった。
昔の家と違い今の新築一戸建ては豪雪対策としてコンクリートの高床式の家で、屋根も雪下ろしの重労働を軽減するために屋根の傾斜を急にして雪が自然に滑り落ちるようにしたり、屋根から地下水を流して、雪を溶かし落下させている家もある。
近代的な家は冷暖房を完備して、昔のようにすきま風に悩ませられる事もなく快適に過ごせるが、日本風の屋敷でなく西洋式の建売住宅が多いので、池のある日本庭園に作庭する家が少なくなった。また駐車場もコンクリートで作られて便利で快適になった。それらの要因から造園業の仕事も庭木の伐採、剪定が主で、作庭する家はかなり減少してしまった。
平成16年の新潟県中越地震で死者68人と言う多大な被害を出した地震の影響で、小千谷や山古志村の錦鯉業者が辞めてしまった。更に平成23年3・11の東日本大震災の影響で、多くの錦鯉業者が多大な被害を受けて廃業した。
以前、自宅の池で小千谷の錦鯉を飼う人が多かったが、今は錦鯉を飼う人が極端に少なくなってしまった。
現在、小千谷の錦鯉は1匹1億円以上の値がつくこともあることから、「泳ぐ宝石」として日本よりも海外で人気があり注目を浴びている。それは水石と盆栽が浮世絵と同じように外国で評価されて人気がある事と共通していて、日本の伝統文化、美意識が見直され注目されているからだ。
冬期、道路の除雪作業はブルトーザーだけでなく消雪パイプによって、冬温かい地下水を利用して道路の雪消しを行っている。地球温暖化の影響で昔から比べたら積雪量が少なくなったとは言え、雪国の生活は豪雪に半年近く閉ざされるので決して楽ではない。
日本の人口減少の影響はここ魚沼も同様で、僻地の山間部では人が住まなくなった空き家が増えて、雪の重みで古民家が崩落し廃村となる村も多い。
豪雪地帯の魚沼地区は昔、生活が貧しい農家が多くて兼業農家は当たり前で、冬季に東京へ出稼ぎに行く村人も多かった。
現在は企業誘致、市町村合併などで南魚沼市が地域振興に力を入れている。地元の企業で働ける割合が増えたので、出稼ぎ者が少なくなった。
これは道路建設(消雪パイプの設置)や橋などの整備、公共事業で新潟の地元に大きく貢献して愛された長岡出身の内閣総理大臣、田中角栄さんの「日本列島改造論」による所の功績が多い。角栄橋と命名された橋があるのもそれを物語っている。
当時の『越山会』は飛ぶ鳥を落とす勢いで、『越山会』に所属している新潟県民が非常に多かった。
源蔵より5つ年下の母、妙子は性格が明るく、畑仕事が大好きで身体が丈夫だから家庭菜園で野菜作りにせっせと励んでいる。妹の節子は長岡に嫁いで共働き、老人ホームで介護職ヘルパーの仕事をしながら暮らしている。男と女の子供が二人いて時々、実家に帰って来るから、両親は孫の顔を見るのを楽しみにしている。
30歳の源治は独身なので、早く嫁を貰い孫の顔を両親に見せたいと思うが、田舎では中々良縁がないのだ。人口減少で若い世代が少なくて、新潟の田舎では嫁さん探しが大変で、フィリッピン人など東南アジア人を嫁さんにする人もいるが、源治はそこまでして結婚したいとは思っていない。
源蔵はまだ60歳で、働き盛りだが松の木の剪定中に脚立から転落して、腰の骨を骨折してからは無理が効かなくなってしまった。後遺症があるから探石に河原に出かけることも少なくなってしまった。
源治は八海山石が大好きで一番だと思っているが、北海道産の神居古潭石と同様に硬質で真っ黒な只見川石を求めて、小出から田子倉ダムを抜けて福島県の南会津へ、越後長岡藩牧野家家臣の河井継之助が戊辰戦争の北越戦争で通った険しい山道の60里越えをして福島県の只見川へ探石に出かけた事がある。
河井継之助は司馬遼太郎の「峠」と言う小説に書かれているが、源治は「峠」を読んで、継之助の郷土の藩を思う使命感、激動の時代の流れに翻弄される挫折感の中で懸命に生きた継之助の姿に感動して涙が止まらなかった。
只見町の山道の道路を軽トラで走っていると、目の前を小熊が横切って山の傾斜面を駆け上って行った。可愛い小熊の姿に驚いて急ブレーキをかけて車を止めたが、暫くしても母親熊は現れなかった。
最近、日本各地で人間の生活圏まで出没している熊問題が報道されている。福島県の南会津地方も熊の絶対数が増えて、人里への出没が多いらしい。熊が出没する地区は毎日、脅しの花火を上げて警告、警戒しているが、最近の熊は人間を見ても怖がらなくなっていると地元の人は言う。
熊との共存が出来るに越したことはないが、ドングリの実などの餌不足で、人間の生活圏に侵入して人を襲うようになると共存が難しくて駆除せざるを得ない。春先のワラビなどの山菜採りには特に注意しなければならない。
鈴木牧之記念館には「人を助けた熊」と言う絵本が展示されている。
熊対策として鈴や笛、爆竹、熊スプレーなどがあるが、源治は鉄の重いバールでなく長い軽量バールと鈴の音に頼っている。
石を掘り起こしたり、足許が不安定な河原で石の上を歩く時にはバールは必需品で、川の浅瀬を渡る時にも滑るから非常に役立っている。
只見川は伊南川と合流して新潟県の阿賀野川へ。更に日本海へと流れていく。只見川はダムが多くて探石出来る場所が少ない。風光明媚な景勝地が多くて、只見鉄道の四季折々の風景は写真家に絶大な人気がある。
初めての川の探石では中々、良石を探せない。ましてこの時期には熊との遭遇だけでなく、草が伸び放題で雑草に足を絡ませて転倒する危険性もある。
まず土手や橋の上から川の石が溜まる河原を探して、河原への下り口を探す。雑草が背丈まで伸び放題だから、その時に雑草を踏みつけたり、バールで木の枝を折る。その木に目立つ色の紐を縛り付けて、下って来た道筋に目印を付けて置くと良い。
単独行動にはマムシやスズメバチ、山ヒルなどの危険が付きまとうから、装備品などに細心の注意をしなければならない。
源治はもしもの事があった時に発見されやすいようにと赤いシャツや赤いリュックサックなど、目立つ服装と装備を準備している。黒色の服は熊と間違えられたり、スズメバチの標的になりやすいので、避けた方が良い。
広い川原の石溜まりを前後、左右に隈なく歩き回って、河原に転がる石の質を見抜き、頭出しの石の色と質を吟味して探す。一日中、河原を歩き回っても良石を一つも見つけられない事がある。源治の経験をしても探石は非常に難しい。
効率的な探石方法はまず周囲を見渡してから、足許を注意深く探る。川岸から見える範囲の水中や草むら、流木やテトラの下なども隈なく探す。
砂や土に埋もれた石は欠けたり割れたりしないから、壊れそうな繊細な部分や抜け(穴)が残っているので名石が多いのである。
良石を見つけたらすぐリュックサックに入れないで、大きな石や流木の側に一時的に置いて、赤い布やテープなどで目印を付けて、回収時にすぐ分かるようにして置く。重い石を担いで歩き回るのではなくて、出来るだけ体力の消耗を防ぐ工夫が必要なのだ。
無尽蔵、星の数ほどある河原の石から名石を探すのは至難の業なのである。難しいからこそ見つけた時の喜びは大きくて、天にも昇る気持ちになる。とにかく探石の経験を積んで、川の状況が読めるようにならないと名石は滅多に拾えないのだ。
「すっごい石だな!よくも越後三山に似た石が見つかったもんだな!」
「こんな石は二つとないがや!」と越後訛りの源蔵は驚くと同時に感心して八海山石のジャグレの穴や景を吟味し見とれた。
「越後訛りの方言はもう親父の代で終わりだな」と源治は思うと、少し寂しい気持ちになった。
「この石の台を文吉爺さんに作ってくれと親父から頼んでくれよ」
「出来れば黒檀か紫檀、あるいは山桜の台座がいいと思うんだけど…」
「分かった、文吉に頼んでみるがや」
武田文吉は縁側に座ってタバコを吸っていた。齢80過ぎだから大工の仕事はもうしていない。趣味で野鳥の鳥籠を作っているが、野鳥の飼育が禁止されてからは鳥籠の受注もない。
昔気質の職人で頑固一徹だが、子供たちには優しい。しかし、子供が間違った事をすると他人の子供でも平気でしかりつける。昔はそんな年寄りがいたが、最近の年寄りは気概がないと源蔵は感じている。
文吉に八海山石を見せると越後三山の景にそっくりだと驚いた。そして作台を快く引き受けてくれた。

ある朝、源治は読売新聞の『盆栽・水石振興超党派議連発足』と言う小さな記事に目を止めた。
「盆栽や水石の振興を図る超党派の議員連盟が発足した。林芳正総務相が会長で、盆栽の海外展開や職人の後継者不足への対応策を協議する。盆栽や水石を輸出産業として確立する施策を検討し、政府に提言する方針だ」と書いてある。
盆栽と共に日本の伝統文化である「水石」とは何か?ほとんどの人は知らない。盆栽は知っていても、水石を知らない人が余りにも多い。
「水石(すいせき)をみずいしと読んだり、漬物石や墓石以外に水石なんて聞いた事がない」と言う人もいる。
水石は「盆石」と呼ばれた時代から500年以上の歴史があり、自然石を対象に、詩的想像力を働かせて、様々な芸術的感興を味わおうとする詫びさびの世界である。
「ある愛石家がもし『盆栽・水石文化を世界遺産に』認定されたら、探石が出来なくなって困る」と言っていたが、そんなことはないと源治は思う。
「川の石を拾うなと言う事は、道端に落ちている1万円札を拾うなと言っても、到底無理な話と同じ事だ」と思う。庭石のように大きな石なら兎も角、水石に適する位の大きさの石ならどこでも簡単に拾う事が出来るからだ。
今の子供は川遊びよりスマホでゲーム遊びに熱中しているし、親も危ないからと川遊びをさせない。そんな状況では水石と言う文化がやがて消滅しても不思議ではない。「探石は面白いし、楽しい」と源治は思っている。
「一生一石」の名石を拾ったからと言って、そこで終わる訳には行かない。名石の所有欲には上限はない。まして探石のお宝探しの楽しみに変わる趣味が源治にはない。
パチンコもゲームも好きではないし、競馬などの賭け事には全く興味がない。石を探して一日中、河原を歩いている方が性に合っている。
その日の早朝、源治は水無川と魚野川の合流点に居た。このポイントは探石に来る人が多くて中々、良い石は探せない場所だが、源治は一度だけ名石を拾った事がある。
探石者が何度も通った河原で底面が平らな石をバールでひっくり返したら、見事な景で抜け(穴)のある八海山石だった。普段は乾燥していてグレーがかった色をしているが、打ち水をして濡らすと八海山石独特の肌の渋さがあり、深いジャグレのある素晴らしい真黒の八海山石だった。
下流に向かって右岸の深みの際が水流によって削られて、良石が土の中から顔を出すことがある。また合流点の土と砂地が混ざった場所にも良石が埋もれていることがあるので、注意して探す必要がある。
だいぶ暖かくなり、水温が高くなったとは言え、清流の水はまだ冷たくて気持ちが良い。川岸を探るために腰まであるウエーダーを履き、慎重に足場を確かめながら、長いバールにロープを縛り付けて左手首に巻き、右手で土手の草につかまりながらゆっくりと下って行った。
20mほど進んで大きな石に右足を載せて体重をかけた時、石が崩れてバランスを崩して転倒した。掴んだ雑草も根本から抜けたので水中に転落した。更に運悪くウエーダーから水が浸入して深みに嵌まり、激流に揉まれて溺れてしまったのだ。
1985年、マラソンの瀬古俊彦選手の中村清監督が趣味の鮎釣りに魚野川へ出かけた。鮎釣りの最中に増水した流れに飲み込まれてしまい、71歳でこの世を去った。
ウエーダーに水が入ると中村監督の時と同様に身動きが取れずにパニック状態に陥りやすいのだ。
源治は子供の時から、魚野川での川遊びで水には慣れていたが、運悪くウエーダーのゴム紐が川底のコンクリートブロックの鉄金に引っ掛かってしまい、必死に外そうとしている間に呼吸困難になり、水をしこたま飲んでしまったのだ。苦労して外した時にはすでに遅く、力尽きて意識を失っていた…。
水無川と魚野川の合流点から小出地区まで約8qあり、昔は暴れ川だった魚野川も河川改修工事で川幅が広くなり流れの変化が小さく、蛇行を繰り返しながら悠々と流れている。
源治はゆっくりと魚野川の本流を下流へと流されて行った。顔を下向きにしてまるでシュノ―ケルを付けて川底の石を覗いているみたいに流されて行ったので、誰も溺れているとは疑わなかった。
小出の堀之内橋上流、魚野川の中州は水の流れが本流と支流に別れる。その地点はかなり大きな石が所々溜まっている。そこに源治の冷たくなった体が辿り着き、大きな石と石の間に横たわっていた…。
そこがまさしく源治が「越後三山」の八海山石を見つけて拾い上げたで場所であった。
夕方、暗くなっても戻らない源治を心配した源蔵が、浦佐の魚野川の土手の上に駐車してあった軽トラを見つけたが、そこには源治の姿はなく、周辺には誰一人いなかった。
一匹狼のような単独行動は束縛されない自由があるが、危険性のリスクも伴う。自然は時として猛獣のように鋭い牙を剥く事がある。南魚沼の豊かで厳しい自然の中、魚野川清流の浅瀬に寝そべっているみたいな源治の亡骸は、大きな流木のように清流の流れを身体で受け止めて魚野川に静かに佇んでいた…。
翌朝の早朝、地元の消防団員によって冷たくなっていた源治が発見された。
7月になり、越後の魚沼地方も漸く梅雨が明け、連日強い日差しが照り付け、真夏の猛暑が続いて、アブラゼミの鳴き声がうるさい程、山間部に響き渡っていた。
『八海山夢展』が行われている池田美術館2階の水石展示室には源治の八海山石が「越後三山」の銘を付けて展示されていた。それが源治の遺愛石となった。
会場に訪れた見学客にも大工の文吉爺さんが山桜の木目を活かして作った台座に鎮座する源治の八海山石がとても素晴らしいと注目を浴びた。その見学客の傍らには源治の母、妙子と妹の節子、節子の二人の子供たち家族の姿があった。
勿論、石仲間や水石関係者も展示会を訪れて、見事な「越後三山」の八海山石を称賛した事は言うまでもない。
池田美術館の2階のエレベーター前からは尾根の深部に残雪を残して、陽光と輝く八海山の神々しい姿が見える。大きな窓枠が名画の額縁のように見える。その中に悠然と納まる八海山を静かに眺める源蔵の目から、八海山の源流から流れる清水のような涙が零れた…。
26/08/18 19:48更新 / 石動 瞬