連載小説
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「レイクエム1」 B過去の追想
『過去への追想』

映画館が閉館されてしまったので、映画を観に行けない。閉鎖される前に見た「三島由紀夫VS東大全共闘」の映画は伝説の討論会、圧倒的な熱量を体感する50年目の真実を紐解くドキュメンタリー映画だ。映画の中で難しい言語が飛び交う討論は緊迫感があり、とても面白くて、あの昂揚した時代、昭和の時代が過ぎ去ってしまったことを強く意識させられた。
昭和45年(1970年)三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で「楯の会」のメンバーと自決した時、家中の人が、世間中の人々が、三島由紀夫の割腹自殺を報道するテレビに釘付けになっていた。私は高校生で、思春期の18歳だった。三島由紀夫と森田必勝の割腹自殺の衝撃は強烈で、記憶の底深くに渦巻いている。
当時、最盛期だった学生運動は沈静化して終息したが、数年後の私に以外な形で影響を及ぼすとは思いもよらなかった。私は年代的には安保闘争時代より遅い世代だから「遅れて来た青年」と言ってもいいだろう。だから「全共闘運動の原点であり、ピーク」と言われた東大安田講堂占拠事件や成田新空港建設反対の三里塚闘争、中核派VS革マル派などの抗争は、テレビの中だけの出来事で、私とは無縁のものと思っていた。 

20代前半、私は都内の広告代理店に就職して働いていた。夜8時過ぎ、私が住んでいた高円寺の安アパートの部屋のドアをノックする音がした。
こんな遅い時間に一体誰だろう?と不信に思いながらドアを少し開ける。
「夜分すみませんが、少しお話できませんか?」と見知らぬ若い男が顔を覗かせて言う。
こんな夜更けに突然、訪ねて来た男はTシャツにジーンズの薄汚れた格好で、ひ弱な感じがする。私は少し警戒するが、若さゆえの好奇心が働いて暫くの間、ドア越しに話をした。
 彼はどうも新左翼系の活動家らしい。周囲を気にしながら静かに私に話をしてから、ガリ版刷りの白黒のビラ2枚を私に手渡して、まるで逃げるようにして帰って行った。
 
それから1週間後、金曜日の夜に再びあの男が現れた。私は渡されたビラを読んでも、難しそうな内容を良く理解できず、違和感を覚えて部屋の隅のゴミ箱に捨てて置いたのだ。
もし彼が中核派の活動家だったら、内ゲバに巻き込まれて死ぬかも知れない?しかし、学生運動の活動家にしては、気弱で大人しそうな彼に対してあまり恐怖感は感じられない。
その後、何度か彼が訪れたが、いつも断り切れずにいつしか彼を部屋に招き入れ、真面目に政治や闘争の話をするようになった。いつの間にか私は、デモや集会などを遠回りに眺めるようになって行った。
若かった私は、社会的な情勢や自分の知らないことに対して好奇心が人一倍旺盛だった。彼に影響され、彼に洗脳された訳ではない。好奇心がそうさせたのである。彼が熱弁をふるう主義主張にいつも違和感を覚えながらも気が付くと、私はシンパとしてデモや集会などに参加するようになっていた。怖いもの見たさで厚いベニヤ板で頑丈に補強された中核派のアジトにも一度だけ足を踏み入れて、内部を見たことがある。
ヘルメットをかぶった集団と共に三里塚へも行き、成田新空港建設反対のデモ行進にも何度か参加した。機動隊との小競り合いに巻き込まれて、成り行き上、私より若い無表情な機動隊員と激しい殴り合いになったこともある。私の隊列には顔は良く見えないが、女性が多数いたのを覚えている。 
高田渡の『自衛隊に入ろう』と連呼する陽気な歌。
「みなさん方の中に自衛隊に入りたい人はいませんか?」
「自衛隊に入れば この世は天国」と、皮肉った歌詞が可笑しい。
『戦争を知らない子供たち』をジローズの杉田次郎が歌って、若者の心を捉えたフォークソングが当時、全盛期だった。
デモの後は内ゲバを警戒して、電車に乗る時も常に周りに目を配りながら、電車の乗り降りを繰り返した。電車のドアが閉じる瞬間に降りたり、乗ったりして危険から逃げていた。アパートへは周囲と後ろを気にしながら回り道を全速力で走って帰った。 
中核派でも革マル派でも学生でもない私、普通の社会人であり会社員の私が、何を恐れているのか?というと、内ゲバの誤認で、一般人が中革派の活動家と間違われて襲撃され、革マル派の過激派に殺されたことがあったからだ。難しいマルクス主義を一つも理解できない私が何故、学生運動、政治闘争に参加したのか? 目に見えない時代の空気感を感じ、若さゆえの好奇心に突き動かされていた時代だとしか思えない。
「私は今日まで生きてみました。私は今日まで生きてみました」
『今日まで、そして明日から』フォーク界の先駆者、吉田拓郎の熱い唄。
そうだ「私は今日まで生きて来た」のだ。
そして「明日からもこうして生きていくだろうと……」

あの時、私のアパートを訪ねて来た心優しい彼は、今頃どうしているだろうか?平穏無事に社会生活を送り、結婚して子供と孫を授かり、幸せな家庭生活を送っているだろうか? 今では彼の名前さえ、とうの昔に忘れてしまって思い出せない……。
当時、出会った活動家はみんな真面目で賢い理論家が多かった。
「差別をなくし、貧困をなくし、権力を打倒する」ために正義感に燃えていた「青春の日々」だった……。
あの頃の世代も今や立派な「後期高齢者」だ。その後の長い人生の中で、時代の波に流されながら己を総括し、転向して、普通の社会人やサラリーマンになっていても、優秀な人達ばかりだったから、きっと社会人として、知識人として何らかの形で社会に貢献し、功をなしているに違いないと思う。
「三島由紀夫VS東大全共闘」の映画を見終わって、外の新鮮な空気を思い切り吸ってから、私はそう懐かしく回想した。

今、私は成田空港に近い田舎の小さな町に住み、小さな一軒家で隠居生活をしながら、ほんの小さな幸せを生きている。
晴れた日に庭から上空を見上げると、抜けるような綺麗な青空を飛んで行く飛行機が見える。あの飛行機は世界のどこの国へ向けて飛んで行くのだろう!
機体の後部から白い帯線が排出され、ひこうき雲となって流れていく。そのひこうき雲を見ていると、昔の三里塚での残像、光景が浮かんで来る。
その後、成田新空港は開港されて、過去の騒動が何もかも一切なかった出来事のように、成田市、三里塚の大地の上空をジャンボジェット機が飛行している。
ツタヤで映画ビデオを借りて自宅で鑑賞する。映画は様々なことを考えさせてくれるし、知性を磨いて人生の一時を心豊かな気分にしてくれる。画面を見つめている間はお爺さんを失った悲しみから逃れられるため、何本も何本も映画を観て時間を潰して過ごす。
以前に見たことのあるお爺さんが大好きだったジェニファー・インジョーとウイリアム・ホールデンの主演映画「慕情」も見た。主題歌の映画音楽は屈指の名作で、悲しみを誘うメロディが胸にジーンと来る。
今まで外出する事が多くて家にいる時間が少ないから、観ることができなかった映画も、自粛生活によって観る時間ができた。初めて観る映画は、私を知らない空想の世界にいざなってくれる。例え空想の世界でも現実を生きていくヒント、感動を見つけ出すことができれば良い。新型コロナウイルスによる新たな生活、仮想生活をリアルタイムで生きていく糧にしたいと願いたいのだ。

「この空の花・長岡花火物語」は最近、亡くなった大林宣彦監督の作品で第二次世界大戦時、1945年の長岡空襲と、その後の長岡花火の展開を描いたセミドキュメンタリ―映画である。
子供の頃、年末の夜は神棚の古札等を燃やしに母と二人で、雪の降り積もった長岡市の中心部にある平潟神社にお参りに行く。
「B29戦闘爆撃機による空襲があり、焼夷爆弾による火災で、多くの人々が平潟神社で焼け死んだ」
「神社の側を流れる栖吉川で、焼け爛れた身体を冷やそうと苦し紛れに水に飛び込み、市内全体の火事により、煮え湯のように熱くなった川で大勢の人が溺れて死んだ」と、白い新雪の積もった神社内で、何度も母から聞かされたことをパチッ、パチッと燃え盛る焚き火の揺らめく炎と共に思い出す。
長岡空襲は、日本軍による「ハワイの真珠湾攻撃」に対してのアメリカ軍の報復で、その攻撃を総指揮した山本五十六が、長岡出身だったことと関係があると言われている。
私は新潟県長岡市で生まれた。良寛さま、上杉謙信、直江兼続、河合継之助、田中角栄、坂口安吾、堀口大学など、多くの優れた人物を輩出したふるさと越後。新潟県は真冬の寒さが厳しく、半年も根雪に閉ざされる雪国である。過酷な自然の中で生きていくには我慢強い忍耐力が必要だ。厳しい生活環境、気候、風土は、その土地で生まれ育った多くの偉人たちに多大な影響を及ぼしたに違いない。
昔、私が育った貧しい村には茅葺屋根の民家がたった3軒しかなかった。だから村の地名は「三ッ小屋」なのである。田んぼに囲まれた田園風景。のどかな日本の原風景と言えば体裁が良いが、ようするに僻地にある田舎の村だった。
海にもそう遠くない越後平野にある。長野の千曲川から名前を変え、新潟を経由して日本海に流れる信濃川という日本で一番長い大河が流れている。その川の水が「コシヒカリ」や「越の寒梅」という米と酒のごとく、日々の生活と文化に大きな役割を果たしている。さらに林業や工業の発展に川の水が必要不可欠なものとなっている。
「日本列島改造論」をぶち上げ、実証した昭和の大宰相、田中角栄元総理大臣のおかげで、現在は信じられない程、山の奥まで道路が整備されている。
「コンピューターつきブルドーザー」の異名を持つ田中角栄さんを敬愛する新潟県民は多い。人の心を掴む人心掌握術と数多い人情秘話が物語る彼の人生哲学が、庶民の心を動かす。まだ子供だった私以外に、家族の全員が「越山会」の会員だった。田中角栄さんが亡くなり「越山会」は徐々に衰退したが、大人になった私は「越山会」に入会して見たかったという心境である。
高度経済成長期、増える工業生産にトラックが通る道が必要だった。冬の豪雪で道路が使えなくなり、急病で病院に行けない人の命が、生活が危ないと考えられて、道路が整備されたようだ。
人口が急増して急速に都市化された町。現在は工場、病院、大型スーパーなども数多くできた。働く場所ができたので、貧しい農家は冬季、昔のように仕事を求めて東京に出稼ぎに行く必要がなくなった。最近は多くの田畑が、大規模な住宅開発によって新興住宅地に様変わりしている。
地方の発展が利点ばかりを生み出すとは限らない。都市化すれば美しい自然が損なわれてしまい、古き良き時代の人情味さえ失われてしまう傾向がある。
今、未曾有の新型コロナウイルス危機で、政治家の力量が問われている。田中角栄さんが生きていたら、この危機にどう対処してくれただろうか? 越後の貧しい家庭に生まれて尋常高等小学校しか出ていない苦労人である田中角栄さんは「努力と根気と勉強」で一国のトップになる運を掴んだ。田中角栄さんなら庶民の苦しみを自分のことと感じて、もっと親身に国民の側に立って行動してくれたに違いないと思う。
「政治家というのは、人の痛みが分からないといけない」と、田中角栄さんは言っていた。自己保身に奔走する令和の時代の総理たちとは違い、昭和の傑人、田中角栄さんならきっと国民の命を守る政策と経済活動の二つを、庶民的視点にたって対応してくれたに違いないだろう。

子供の頃、田んぼの中の一角に葬礼場があった。現在、どこにでもある近代的な葬儀場ホールなど無い時代だ。当時は村の年寄りが死ぬと、縦横に組んだ木材の上に棺桶を乗せて、火葬していた。
幼少の頃、村の年寄りが亡くなった。母親におんぶされ、背中越しに棺桶の小さなのぞき窓から老人の顔を見せられた。その「死顔」デスマスクの記憶が今なお鮮明に残っている。
血の気の無い蒼白な顔「死」というものを初めて見せられ意識した瞬間。子供にとっての「死」それは生命を無くした人が、劫火で焼かれ灰になるという恐ろしさだった。
人生経験を積み重ね、気が付かぬうちに多くの年令を得てしまった今、「死」は恐れよりもむしろ寂しさを感じるもの。「死」とは痛みや苦しみではなく生命を失う怖さ、輪廻転生も無く、二度と戻って来ることのない「無」の寂しさに他ならないと想う。
 み〜ん、み〜ん、み〜ん、み〜ん、……。
その葬礼場には大きなクヌギの木とコナラの木が数本あってカブトムシがたくさんいた。
太陽の光がギラギラ光輝く真夏には、アブラゼミやツクツクボウシのうるさい程の鳴き声が響いていた。
子供の私はカブトムシが欲しかったが、葬礼場が恐ろしくて近寄ることができなかった。とうの昔、その葬礼場は撤去されて、跡形もなく無くなってしまった。今、そこには保育園があり、子供たちが元気にキャー、キャーとうるさく騒ぐ声が響いている。

今年で戦後75年になるが、まだ「終わらぬ夏」が続いている……。
戦前、父、田島昭平は川崎市の日本鋼管で働いていた。川崎大師の近くに立派な家があったが、第二次世界大戦戦争のB29爆撃機の空襲で焼き払われた。母、菊乃とまだ幼い兄、昭一と一つ年下の昭次が父の実家である長岡に疎開したのだ。
川崎大師の側で「葛餅」が売っていた。子供の頃に食べた「葛餅」の味が忘れられず大好物だ!と兄たちは言う。
父が長く戦争に取られていたため、戦後、長岡に復員してから生まれた私は、兄の昭一と15歳も年が離れている。私は、昭一と昭次の三人で、一緒に遊んだ記憶が一度もない。
私は高校を卒業して上京、数年働いて人生経験を積んだ後、田舎に帰るつもりでいたが、結果的には田舎に帰ることもなく、故郷を捨てた形になってしまった。大人になって振り返ると、二人の兄との会話の記憶が全く出て来なかった。
昭一が28歳の時、父の戦友、岡村太助の娘、兼子を嫁に貰った。
「カネコなんて親がお金に困らないようにと付けた名前かも知れないけど、お金を連想させ、お金にこだわる名前を私は好きになれない」と、母は第一印象が良くない兼子を嫁に貰うことに賛成しなかった。
母、菊乃の生家も貧しくて幼少期に親戚の旅館に預けられ、大人気だったテレビドラマ【おしん】のように働かせられた。旅館の女将さんからいじめられて随分苦労しているから、人を観る眼がある。
その母の嫌な予感は見事に的中した。父が亡くなった時、昭一はすでに脳梗塞で倒れていて右手と右足が不自由になり、口がきけなくなっていた。そんな昭一に変わり、金欲を丸出しにして出しゃばって来た兼子と、家族が遺産相続で散々揉めてから、私も兄嫁、兼子とは絶縁状態になってしまった。

雪景色の中、幼少時の私が羊に乗って家族と一緒に写っている写真が、色褪せた古い写真アルバムに貼ってある。羊(めん羊)の毛を刈り取って毛糸を作るために父が、羊を飼っていたのだ。貧しさから脱却するためなら、父は何事にも真剣に取り組んでいた。
道路を隔てた本家の農家には、3頭の大きな馬が飼われていた。昔は大抵の農家で、馬は稲作の担い手として飼われ育てられていた。昭和という懐かしい時代の一コマである。
「父は第二次世界大戦で、東南アジアの激戦地区ラバウル方面に駐屯していた」というが、詳しい話は知らない。
「激しい銃撃戦を繰り返し、部隊はほぼ全滅に近い状況で、残された戦友も飢えとマラリアでほとんどが死んだ」と、父から聞いた。
戦後、復員して実家の長岡に帰ることができた父は、戦前に日本鋼管で働いていた経験を活かして、まだ少ない物資を運ぶのに役立つ一輪車やリヤカーの製作を始めた。
鉄工所を営んだ父は、苦労して事業を少しずつ大きくして行った。そして、同じ市に住んでいて亡くなった戦友、木村善治郎のご子息、木村時男を自分の工場に雇い入れていた。
酒豪の父は酔うと『ラバウル小唄』を歌い、何故か?山形県出身でもないのに、十八番の『真室川音頭』を、よく歌っていた。
「さらばラバウルよ〜 また来るまでは〜 しばし別れの涙がにじむ〜」
「恋し懐かしあの島見れば〜 ヤシの葉陰に〜」
目を瞑り、耳を澄ませば酒に酔った父の歌声が聞こえて来る。
「私しゃ 真室川の梅の花コーリャ〜」
「貴方また この町の鶯よ〜」
「花の咲くのを待ち兼ねてコーリャ〜」
「蕾のうちから通うて来る〜」
アァ〜、コリャ〜、コリャ〜、宴会時、父の酒席の定番だ。
陸軍の伍長だった父は、マラリアに罹って死にかけたそうだ。
「敵から盗んだ食料を調達してやった軍医から、必ず助けてやるから心配するな」と言って「軍医に手厚く看病されて救われた」と父から聞いた記憶がある。寡黙な父から戦争体験の話を聞いたのはたったそれ位だ。どうして、もっと色々な戦争体験の話を詳しく聞かないでしまったのか?と、大人になってから悔やんだが後の祭りである。
『父よ あなたは強かった』俳優で演歌歌手でもある鶴田浩二の軍歌がある。
「父よ あなたは強かった 兜も焦がす炎熱を 敵の屍と共に寝て 泥水すすり草を噛み 荒れた山河を幾千里 よくこそ撃って下さった」
父と面と向かうと何故か?気恥ずかしくて遠慮がちに黙り込み、会話することから遠のいてしまうのだ。この不思議な距離感は父が死ぬまでずっと変わらなかった。しかし、黙っていても通じる親子関係、そして男同士の尊敬と愛情はいつも私の心の中に存在していた。
私の父はマラリアの後遺症にあまり苦しめられることはなかったが、脈拍数が少なくて心臓のペースメーカーを2度入れ替える手術をした。しかし、中肉中背だが強靭な父は酒もタバコも大いに嗜み、お爺さん(伊吹春吉)と同じ88歳でこの世を去っている。大正2年生まれだから今、生きていれば107歳になるはずだ。
誰にも親切で話好き、みんなから好かれた母、菊乃は96歳まで長生きして天命を全うした。兄、昭一は脳梗塞で、昭次は心筋梗塞で母よりも早く亡くなってしまった。私だけ両親と離れて、都会で就職して故郷を長く離れていたので、兄弟とはいつの間にか心も遠く離れ離れになってしまった。
まだ若かった私は、自分の人生を一生懸命に生きるだけで精一杯だった。だから兄たちとは、電話で話をしたこともなく、残念ながら私のことをあまり気にかけて心配してくれたとは思えないから、二人の兄の「死」にあまりショックは受けなかった。
私は気が付くと身内を失い、独りぼっちになってしまった。もし、私に弟と妹がいたら、常に気に掛けて面倒を見て可愛がったに違いないだろうと思う。
「今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ」という歌詞で始まる『山谷ブルース』岡林信康のその歌詞が非常に強烈で印象的だった。
「一人酒場で飲む酒に かえらぬ昔がなつかしい」
フォーク界の第一人者、岡林信康のフォークソングが心に浸みる。昔、酒に酔って歌った頃が懐かしい。

大人になった私は酒を大いに嗜むが、タバコだけは吸いたいと思わない。若い時に酒を断ってから一切飲まないお爺さんに「タバコを止めて」と、哀願するのは酷だと分かっていても、健康のため長生きして欲しいから、ついつい口に出してしまっていた。
父、昭平が吸っていた「いこい」という紙巻タバコは、フイルターがない両切りタバコで、私は中学生の時、父のタバコをこっそり隠れて吸ったことがある。私は煙にむせて、苦いタバコの葉が唇の周りに付着してしまい閉口した。
大人はどうして、こんな不味いものを吸って喜んでいるのか?と、理解に苦しんだ記憶がある。それ以来、私はタバコを吸ったことがない。 
今は健康志向が強く、発がん性物質があるタバコを止める人が多い。「禁煙」が当たり前になり、レストランなど何処にも喫煙場所がなくて、喫煙者は肩身の狭い思いをしている。
当時は私の田舎、長岡の山中にも日本専売公社の工場があり、山の畑にはタバコの葉が多く栽培されていた。枯れたタバコの葉で黄色く染まった畑の風景が思い出される。
私にとって父親とは、男としての威厳というものを常に備えた偉大な存在だった。私が幼少の頃、欲しい玩具を買って貰えてない不満からいつまでも泣きじゃくっていると、真面目で厳格な父に、埃だらけの屋根裏部屋の大きな木箱に閉じ込められて、閂を掛けられた。
箱の中から両足で蹴りつけ、小さな拳で箱を何度も叩きながら、いくら泣き叫んでも長時間、箱の外に出して貰えなかった。母が父に許しを請うて、数時間後にようやく解放されたのだ。暗闇の箱の中で泣き叫んだ恐ろしさは、今も記憶の隅に残っている。
人生で欲しいものが、いつも手に入るとは限らない。人は欲望を我慢することも必要だということが父から教わった教訓だ。人格形成に幼少体験が大きく関わると、私は思っている。
私は子供の頃からいつも母が死ぬ恐怖に怯えていた。もし母親が死んだら、誰も私を助けてくれない‼誰も私を暗い箱の中から救い出してくれない‼という強い脅迫観念からだ。しかし、母も決して私を甘やかすことがなかった。中学生の私は自慰行為をした疲れから朝寝坊して、いつまでも寝ていた。
「学校に遅れるから、早く起きて!」と言って、母から箒の柄の竹で頭を強打されてしまう。赤くなって少し膨らんだ頭の痛みが、母の愛情の印だと分かっていても、竹の柄ではあまりに痛すぎた子供の頃の思い出だった。
父より母への愛情が非常に強かったが、父には男同士の気恥ずかしさ、羞恥心を常に感じていた。父親とは距離間があるだけに、かえってかけがえのない大きな存在だった。
私が高校1年生の時、2つ年上で仲が良かった高校3年生の従兄、神林和男がホンダのバイクCL250に乗って、家の近くを走る貨物列車と衝突して死亡した。その時、事故を聞きつけた父は、救急車に付き添いで同乗して行った。
大怪我で全身血まみれの和男は、高鼾をかいていて、もう助からない状態だったという。そんな状況でも全然平気で顔色一つ変えない冷静な父の姿を私は見た。さすが戦争体験のある男は冷静で強いと心から尊敬し、私も父のように強い男になりたいと願っていた。
私が幼少時に祖父母が亡くなったので、私には祖父母の記憶がなく、お爺さんとお婆さんが欲しかった。私は三人兄弟の末っ子で、兄たちと随分と年が離れていた。一人っ子みたいな私を不憫に思ったのか?村の年寄りたちから、随分と可愛がられた経験がある。
近所のお婆さんに泊まりに来いと誘われた。その家の母親と息子と私も一緒に布団の中に潜り込んで寝ながら、母親から絵本を読んで貰ったことが幾度となくある。その一緒に寝た子供が、バイク事故で死んだ和男だった。私は本当の兄を失ったような気がして悲しかった。「死」というものを強く意識した瞬間だった。その時、何故か電線にカラスがたくさん止まってギャー、ギャーと鳴いていたので、それ以降、私は黒いカラスを見ると不吉な予感に怯えるようになった。
高校生になった私は、自動二輪車の免許を取り、バイクを買って欲しいと思ったが、和男の事故死もあり、当然、両親は猛反対した。私はどうしてもバイクが欲しくて仕方ないので、夏休みや冬休みに土方のアルバイトをして、お金を貯めてホンダのドリーム号という125CCの中古バイクを購入した。家にお金があるのに、和男が事故死したという理由でバイクを買って貰えなかった私は、バイト代で中古のバイクを買うまでの間、両親と長らく口をきかなかった。思春期の反抗期とは言え、私も随分強情で意地っ張りな所がある。
1968年に公開された「あの胸にもういちど」という、私の心に強烈に残る映画がある。
アランドロン主演の伝説的サイケデリック・モータームービーだ。新妻レベッカが、恋人のダニエルの肉体を求めるエロティックなセックスシーンが多くて、エロス感漂う黒革のスーツに裸体を包んで大型バイクを猛々しく疾走させて彼の元へ通う。そして最後には大型トラックと正面衝突して激しく弾き飛ばされて死んでしまうという衝撃的なストーリーだ。
私は30歳の時、ヤマハのVマックスという逆輸入車1200cc大型のバイクに乗っていた。関越自動車道の高速道路を最高速度180q出して激走した時、もし、事故ったら、あの映画のように死ぬのだろうと考えながらハンドルを強く握っていた。
その後、車を購入してからVマックスを手放した。今でもあの素晴らしいデザインと300kgの車体をVブースト145馬力のエンジンで力強く動かす高性能のVマックスに乗りたいと思う。Vマックスを発進させ、爆発的な加速、アスファルト舗装の道路に黒いタイヤ痕を残しながら凄いパワーで爆走して、もう一度、青春時代という道を疾走したいと思う。
しかし、「後期高齢者」となる私は、年取って腰が悪いからもう無理でその夢は叶えない。やはり年は取りたくないものなのだ。 
1969年に公開された「イージー・ライダー」というアメリカ映画は、長髪の若者二人が、自由を謳歌するためにハーレイダビットソンのバイクに乗り、アメリカ大陸を旅するというアメリカン・ニューシネマで大ヒットした。
主役のピーターホンダとデニスホッパーが、銀色に光輝くメタルの光沢感が美しいチョッパーのハーレイで気ままな旅に出る。
「気ままに、自由に」の憧れからマリファナを吸い幻想的な世界に浸る。ヒッピーに象徴される長髪の若者が醸し出す殺伐とした空気感。それらを拒否して、古い伝統を頑なに守ろうと固執する男たちに、バイクで走行中に訳もなくライフル銃で射殺されてしまう衝撃的なラストシーンは何とも言えない無力感に襲われてしまうのだった。
1970年代、学生運動、フォークソングが、若者の心を占めたあの時代から、私にも50年という歳月が、いつの間にか流れ過ぎてしまったのだ。
「雪の白樺並木 夕日が映える」
「走れトロイカ ほがらかに」
「鈴の音高く」
ロシア歌曲『トロイカ』、『カチューシャ』など、新宿の歌声喫茶【ともしび】で歌った曲が懐かしい。
「緑もえる 草原を超えて」
「ぼくは行きたい あなたの」
「花咲く窓辺へと」
『ポーリュシカ・ポーレ』仲雅美が1971年に歌った懐かしいアレンジ曲が、今ではユーチューブで聴くことができる時代なのだ。
「雲ながれる ロシアの大地に」
「二人の愛はめばえて」
「明日へとつづくのさ」
26/08/18 20:25更新 / 河志摩 運
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